第十篇
面倒くさいことは省いてやりましょう
語り手=羽鳥健太郎聞き手=大川貴久
まず最初に、皆さんにお聞きしていることなんですけど。最初にパソコンに触った時のきっかけとか、パソコンを触った最初の頃っていうのを、いつだったか覚えてらっしゃいますか。
僕はね、八ビットなんですよ。最初にパソコンというものを触ったのは、八ビットだから、FM-8。富士通の FM-8 っていうのを初めて触りました。その後、パソコンっていうのは、そうですね、PC-98 とか、エプソンの PC-98 の互換機、という時代ですね。いわゆるパソコンというものに触ったのは。
おいくつぐらいの時だったりっていうのは。
それはね、二十四か五ですね。
じゃあ、もう社会人としてってことですか。
いやいや、僕、社会に出るの遅いんですよ。二十六の時に社会に出たんで。
ですと、学生さんの時に初めて触られて。
そうです。そうです。ちょっとプロフィールのほうに書かせていただきましたが、物理学科に入った時に、データを取りまとめるのに最小二乗法を BASIC で作ったっていうのが最初です。
僕が入った頃ってまだ、もちろん八ビットだから、パソコンなんて発展途上で。基本はメインフレームなんですよ。技術計算っていうのは、メインフレームの Fortran という言語でやるっていうのが当たり前の時で。メインフレームと並行してパソコンを使った、って感じですかね。
そこで初めて触られたのがきっかけで、そういったところにパソコンとか、そっちのほうを触られるようになったっていうことだったりですか。
仕事で、原子力。原子炉の安全解析をやった時、当然メインフレームでやってるんですけれども、一部のモジュールって、自分の家でも書いて試したいっていう時に、結局、ソフトウェア買わないと何もできない、という状態だったのが、嫌だったなあっていうのは覚えてます。
だから、当時は BASIC で自分で作るか、それとも、なかったらソフトウェアを買うかの選択肢は、二つに一つだったんですよ。あとは先輩から教えてもらうとか、過去の試算を横展開。ソフトウェアの横展開っていうものがないですから。当然、まだインターネットのない時代ですから。
そういうところで、何をやるにもお金が必要なんで。人のソフトウェアがどういうふうに作ってるのかなっていうのを見るっていうのは、なかなか難しかったんですね。
そんな時に、ちょうど。まだ Linux がない時代です。BSD で、大学に入ってるのって結構フリーになってて。フリーソフトウェアはあったのか。リチャード・ストールマンはもう出てきてる頃で。当時だとしたら、海外っていうか、アメリカから CD を取り寄せて、そこでいろいろなソフトウェアを。当時は無料で、CD を買うだけで見ることができるって、いう形で。
当然、仕事は Fortran なんですけど、f2c っていって、Fortran を C に直すっていうツールがあったんですね。それで Fortran をエディターで書いて、それでコンパイルして通して、ああ、ここは動くとか、そういうのをやってました。
で、だんだんそれをやってる時に、自分でも。まだ NetBSD とか FreeBSD が出る前の時代ですね。BSD 4.2 とか BSD/386 とか、そういう時代で構築してて。
一回目の転職をした時に、会社のデータをネットワークで繋げたいっていうんで、じゃあ僕やりますって言って、BSD でネットワークを組んだ。っていうのが、どっぷり使うきっかけでしたね。
その後にバークレーに行った時に、BSD でやってたもんですから、本場の BSD が見れるって言って行ったら。バークレーの中で BSD を使ってる人は誰もいない。
そうなんですか。
そうそうそうそう。なぜなら、学生は学割で Solaris を格安で買える。二割か三割で買えるんですよ、当時の価格で。だから、そんな不完全なもの、誰も使わないよって言われて、すごいショックを受けてですね。
で、その時に、Walnut Creek CDROM Shop っていうのが、結構ベイエリアで有名な、CD をいろいろ作って配布しているところで。僕は日本にいる頃から、そこに通販で買ってたりとかしてたんですね。で、そこに行って、本当に BSD ってどうなの、って話したら。そこの社長が、ちょうど、米軍にいた時に横須賀に駐留してたんで、日本から来たのかって、すごく歓待してくれて。
いろいろ話をして。だが BSD って、イケてないよと。ベイエリアでも最近は全然使われてないよね。BSD 関連のソフトウェアとか、CD で作ってても、まあ、ちょぼちょぼだよと。で、あともうちょっとしたら、もっとイケてるのが出るんだって言って。で、まだ発売前なんだけど、せっかく訪ねてきてくれたんだから、これ売ってあげるよって言って。
当時、百。今にして思えばね、結構高いなあと思ったんだけど、百ドルで、Linux の〇・九九だったかな。それを手に入れたんですよ。それがね、ディストリビューションは Yggdrasil っていう、北欧の女神の名前がついたディストリビューションで。結構スクリプトとか組んであって、デモみたいな形になってるんですね。X も当時からありましたから、X が立ち上がって、スクリプトで虎の絵を描いたりとか、そういうやつで。
でもね、最初、戻ってきてから BSD で本格的にネットワーク組もう、っていう話になってたんですけど。その頃は Linux なんて全くネット全然使えないで。とりあえず BSD で組んで、組み終わってから少し経ってから FreeBSD になったのかな。
で、その頃に僕、社会人大学院に行って。その時に、Linux こういうもんだよっていうのを、結構いい先生がその大学院に揃ってたんで、いろんな人にいろいろ教えてもらって。本格的に、さらにズブズブになっていったっていうか。
それで言うと、お仕事のほうでやられてた、もともと。
そうそうそうそう。仕事に何とかシステム利用できないかっていうのが、始まりです、僕は。だが、昨日書いてて思ったのは、何かしら、何かで繋がってるなっていう感じは思いました。
最初は技術計算のところから、お仕事で原子炉のところでやられていって。それで。
で、それでネットワーク構築が仕事になって。でまだね、10BASE-T っていうか、その、今使われてる、あの電話みたいな端子ではなくて。同軸ケーブルで繋げている頃の世界で。ネットワーク繋がる時に、同軸ケーブルのハンダ付けとか、会社中のありましたもん。
本当に、物理から。
そうそう。でまたね、みんな、踏むのはまだいいんだけど、足に引っ掛けて、それが抜けて壊れるんで。もう泣きました。
今じゃ考えられないですね。じゃあ、もうそういうレイヤーから、ソフトウェアのところまでやられてらっしゃって。現地に行かれて Linux を知ったっていうところがあったんですね。
そうです。そうです。BSD と Linux、ずっと並行してやってて。えっと、今もそうなんですけれども、小江戸らぐのサイトの OS は FreeBSD です。みんなに、ひねくれものって言われてます。
実際 Linux とかに触られるようになって、お仕事もそれで変わられたりとか、それこそコミュニティの活動とかもされるようになっていった。
えっと、Linux をやってたから仕事変わってた、っていうよりも。大学院終わった時に、いろいろお世話になってる大学の先生から、「今の会社にいても君が大学院で学んだものはここでは発揮できないから、転職したほうがいいよ」って言われて。違うとこを紹介してもらって転職した。ところが、GIS の会社だったんですね。地図の会社で。
ところが地図って、実は知財権がガチガチに固められているところで。オープンソースなんて、今でこそオープンソースと組み合わせてうまくやるっていう時代なんですけれども、当時はオープンソースは敵だっていう、マイクロソフトと同じようなところで。そこで、会社とは別に、細々とやってたっていう感じですね。
で、、アメリカから帰ってきた時に、Tokyo Linux Users Group でずっと英語で活動してたんですけれども。やっぱり意思疎通ってうまくいかないよなあ、とか。何ともうちょっと意思疎通ができていいとこないかな、とか思ったら。埼玉西 Linux 研究会って作ります、っていう人がいて。じゃあ僕も参加しますって言って。
で、今でも覚えてるんですけど、最初の待ち合わせは、池袋のビックカメラの前。で、おじさんたちがわらわらと集まってきて、十人ぐらいだったかなあ。
それで、月一回の勉強会をいろいろしていって。徐々に十人が二十人、三十人近く行く時もあったかな、ぐらいになってて。その時って結構、各地域に、ちょうど地域 Linux ユーザーグループっていうのが、千葉にできたりとか、大阪にできたりとか、いろんなところにちょぼちょぼっとできたんですね。
その主催の人が、ちゃんとした組織にしたい、って言って。組織を固めようって言った時に、僕は、そうじゃなくて、本当に知識の勉強の場であればよかったんで。そんなの、ずっと下働きっていうか、面倒くさいこと全部やってたんで。その組織化するっていうのも、また俺のところに降ってくると思ったんで、絶対やだって言って。そんな面倒くさいことやるんだったら、僕はもう辞めるって言って、辞めて。
そしたら、そんな中の何人かが、ハトちゃん、そんなこと言うんだったら自分の楽な方法でやればいいじゃん、って言って。それで、小江戸らぐを作ってみたんです。
それで言うと、最初に Tokyo Linux Users Group だったりとか、そういうところに入られてたっていうのは、もともと勉強というか、ご自身の知識を得たりするためっていうところが、やっぱり大きかったってことですか。
そうそう。で、そういうのが、サンフランシスコとか、ベイエリアでは当たり前にあって。そこはね、ネットワークじゃなくて、当時は新聞で募集が出たんですよ。
新聞で、何面にもわたって、こういうユーザーグループを作りました、募集します、っていうのが。それこそね、日本では三行広告みたいな形で出てるわけで。もちろん Windows だけじゃなくて、Mac のこういうことをやりたいとか、Windows のそのネットワークだけをやりたいとか、サウンド関係で何かやりたいとか。そういうのが、うわあって出てて。
僕はそういうので、当然、日本にもそういう文化なかったんで、びっくりして。で、ただ、その前に、日本って、BBS って知ってますか。
あ、はい、もちろん。
その、BBS。富士通とか NEC が、BIGLOBE とか。富士通は何て言ったっけ、忘れちゃったなあ。売り渡しちゃったんだもんね。ただ、僕は日経新聞がやってた日経 MIX に入ったんですよ。
MIX ね。日経 MIX。で、これが結構コアなもので。そこで僕は BSD のソフトウェアをもらって、インストールしたの。えっとね、CD じゃなくて、当時はまだ CD もなかったんで、フロッピーディスクを、二十枚ぐらいだったかな。二十枚ぐらいで、宅配便で届くんですよ。
へえー。
で、それを使ってインストールして、次の人に渡すんですよ。そう、そういうことをやってたんですね。で、それもあるなあ。
そういうのが下地で、そういうところに。
そうそうそうそう。あの、よかったのは、自分の欲求と、当時の文化的素地が、同時に、こう、少しずつ種を撒いて芽が出るっていうのが、同じぐらいの速度で進んでたのが。僕にとっては楽でしたね。
じゃあ、もうご自身が関わりやすいように関われてってところがあって。
当然ね、日経 MIX には、その当時の大御所さんっていう方もいっぱいいて。なんですけど。それとね、インターネットは大学にいないともう入れない時代だったの。僕、一番嬉しかったのは、社会人大学院になったらインターネットに入れるっていうのが。
そうだったんですね。
うん、そうそう、それ一番嬉しかったですね。ただ、それがさ、結構お粗末で。大学間って、ネットニュースが当時の情報源だったんですけれど。夏休みって、みんなメンテナンスしなくなるから。上流の大学がまずネット落ちるでしょ。データがいっぱい来ちゃって落ちるんですよ。溜まったままで流さないから。
そうすると、上流の大学の人が、そのシステムを直します。直すと、データが次の下流の大学に流れるから、その次が突然データがいっぺんに来て落ちる。って言うんで、一、二ヶ月ね、休みが終わるとね、動かないっていうのが普通でした。おおらかでしょ。
そんなことあるんですね。そんなに長い時間落ちてたら大問題です。
そうそう、大問題で。当時は、そのインターネットを使ってる研究室も、今もそれ残ってるんですけれど、徒弟制度なんですよ。それで、大学のシステム、BSD のシステムを身につけていくっていうのが多かったですね。Linux みたいな自由な雰囲気はなかったですね。徒弟制度ですから。
確かに、そうですね。っていうところで、大学で学ばれてたのと、また別に、Linux の、実際のオフな場所に行ったりっていうのは、そういうことがきっかけだったりとか。
そうですね。その自由な雰囲気が好きでしたね。怒られないし。ネットニュースなんかでも、日経 MIX なんかでも、書き方で怒られて。何やるんでも怒られるんですよ。それ、嫌でした。何て言うの、お作法がなっていない、と。まあ、当時にしては失礼だったとは思いますけどね。お作法を知らなかったから。
なるほど。そういったところで関わっていらっしゃって、結果として新しいらぐを作られるっていうところに至るっていう。
そうそうそうそう。それと同時に、その、GIS の、パスコっていう会社なんですけど。聞いたことあると思いますけど、パンの会社じゃないからね。そのパスコから IPA に出向するんですよ。
で、出向している最中に、日本政府もオープンソースにいろいろやらなければいけないみたいな話が出てきて。その時に、IPA でもやりなさいっていうのが経産省から来た時に。そもそも IPA の人、オープンソースのおの字も知らないですけど。オープンソースって何だ、何だって。そういえば羽鳥が、そんな活動なんかもやってて。僕、言ってたから、ちょっと聞きたいって言って。上のほうの人に呼ばれて。オープンソースソフトウェア事業っていうのを作ってた、って。
あれはね、ウィキペディアにも載ってます。オープンソースソフトウェア事業って。後で見てみてください。
実際 IPA がやられてる事業で、いろんな成果物としていろんなものがあって、っていうところですよね。
はい。でも、あれね、いけないのはね。IPA の人がほとんど使わないんだよね。僕は IPA の人こそ Linux 使ってみたいなと思ってたんですけど、上の人には、その意見は極端だっていうふうな話で、怒られましたけどね。
でも僕、今でも、デスクトップ Linux の日本語変換は、その当時作ってくれた uim を使ってます。軽いやつが、uim の、Anthy っていう。使わせていただいてるんで。まあ、メンテナンスは結構遅いですけれども、それなりに、まだ今でも動いてくれるんで、便利に使ってます。軽くて。
実際、オープンソースソフトウェア事業としていろいろやられてたっていうのも、ご趣味でやられてるじゃないですけど、そちらもありつつ並行してやられてたってところで。
はい、そうですね。プライベートと仕事が平行で動いてた。で、もちろん、プライベートで会ってる人と、仕事で会う人が同じだったりとかするし。何か委員会立ち上げるんでも、プライベートでいろいろ会ってるから、じゃあ、あの人のつてを辿って、あの人を紹介してもらおうみたいなこともできたし。便利でしたね。
それで言うと、いろいろやられていくっていう中で、プライベートだと、それこそ小江戸らぐとかを立ち上げられてっていうところがあって。そういったものを立ち上げられた経緯としては、どういうところだったんですか。
小江戸らぐは、もう、それは本当に、純粋に、勉強会をやって飲みたい。そういう場が欲しい、自由に語れる場が欲しい、って言うんで。ただ、埼玉西 Linux 研究会でやってて、面倒くさかったんで、なるべく面倒くさいことは省いてやりましょう、みたいなことを考えてて。
だから、僕がやるのは、毎月、会議室を確保しますっていうことと、夜の飲み会を決めます。で、募集します。当時はまだ connpass ありませんでしたから、メーリングリスト作って、そのメーリングリストにそれを投げる。で、みんなそのメーリングリストに返して、僕、来ますっていう人はそれ書いていくみたいな。やってて。
で、そういうふうな形で。でも最初はね、四人とか五人っていうのが、半年以上続いたと思いますよ。ただの飲み会じゃんみたいな話。
ただね、今、結構人数減る時もあるんですけれど、そこまでひどく減らないし、二十人ぐらいは毎回来てくれるんで。だから、その時の経験があると、結構強くモチベーションを維持できますね。
やっぱりね、集まる場って、オンラインになったとは言え必要だなって。まあ、結果的にはそんな感じで思いましたね。
で、当時も、ちゃんと勉強会をするっていうところっていうのが、あそこだ、YLUG が。横浜 Linux ユーザーグループというのがあって。これは吉岡さんっていう人がやってたんですけれども。これはもう、プロフェッショナル集団の人たちで、むちゃくちゃ敷居が高いんですよ。ちゃんとしたものを、一回で二題ぐらい。四時間の間に二時間、二時間やるみたいな。結構その、大学の授業っぽくやるみたいな感じで。これは結構しんどい。
だから、もっと緩くやりたい。その、エントリーする人が、初めて来る人が、ビビらないような。気軽に入ってきて、あ、じゃあ、こんなんだったら僕も何か発表してもいいかなっていうような会で勉強会をしたいっていうのが、僕はすごくありました。エントリーレベルのものが結構少なかったんですね、当時は。
以前のところとかでも、要するに勉強会の形として、緩いというか、頑張らないというか。そういう形のっていうところでやってらっしゃって、っていう。
そうそうそうそうそう。で、それで、失敗して。成功して、こんなのができるんだぜ、すげえだろ、っていうネタもありますけれども。ここまでできたんだけど動かない、どうしていいの、助けてっていうネタも入って。そうすると、みんながああでもないこうでもないって、自分の経験したことを話してくれたりとか、聞いた話を伝えてくれたりとかするんで。場も盛り上がるんですよね。一方通行にならない。結果論ですけどね、それね。今にして思えばね。
で、それやってて、そしたら、友達の一人が、これ、そのままにしておくのもったいないから本にして作ろうよって言ったのが、LinuxUSER だったんです。
しかも、LinuxUSER って、僕、最初ね、まあ、その頃はもういい大人ですから。コミケって、あの、変な人が集まるところだと思ってたの。まあ、そうなんですけど。
だから、これ本にしてコミケに出そうよって言われた時に、あんなとこ、やだよって言って。ちょうどね、なんか爆発物を置いたとか、そういうニュースが流れてるような頃だったんで、絶対嫌だって言ったんですけど。そういうところもあるけど、絶対誤解だって。あれはあらゆる同人誌の人たちが集まって、俳句集やなんかを出してるおじいちゃんおばあちゃんだっているんだから、って言って。だから絶対そんなことないからって言って。まあ、すごい推してくれてるんで。それでやってみたっていうのが最初。
そこから何年ぐらいやられてます。
えっとね、小江戸らぐを作ったのは二〇〇二年なんですけど。初めてコミケに出したのは、二〇〇三年だったかな。
もう、じゃあ最初の方から。
でも最初はね、印刷会社に頼むんじゃなくて。あの、キンコーズってコピー屋さんあるじゃないですか。そのキンコーズに原稿を持ってって、コピーしてもらって。コピーを、ロの字に並べて、ぐるぐるぐるぐる回って、真ん中をホッチキスで留めて。帯っていうか、そのホッチキスが取れないように、帯のシールを入れてみたいな。最初そうでしたよ。
手作業で実際作られて。
で、結構出ちゃうんですよね。みんな、そういう技術同人誌に飢えてた頃なんで。これは手作り追いつかないって。じゃあ、結構ギャンブルなんですけど、印刷所に一回出してみるって言って、出したら、なんとかうまくいって。
で、当時はまだまだ、僕も勢いがあったんで。その LinuxUSER に、ちゃんとおまけの CD-ROM を焼いて付けて。みんなで、CD-R を焼くシステムを持ってる PC を持ち寄って、みんなで焼いてたんです。焼いてて、一人がプリンターでラベルを印刷して、っていう。そういうことやってました。
すごい。
そういうの、集まるの、楽しいじゃないですか。そういうことやってましたね。
そういった勉強会なんですけど、形式ばらないようなことをやられてらっしゃってっていうところがあって。そういうところでコミュニティでやられてるところがありつつ、お仕事のほうでもオープンソースってなると、また、ちょっと変わってくるっていうところは、やっぱりあるんですか。
そうですね。仕事は仕事でちゃんと。僕は、その、Linux が普通の仕事の中で、っていうよりも、オープンソースがいろいろなところで入っていかないと。当時は DX なんていう言葉なかったですけども、当時は電子化ですね。電子化が進まないんで。
ちょうど二〇〇〇年過ぎぐらいから、IT バブルが確か弾けるんですよ。で、だから、その IT に対しての神話が崩れて、入れただけだったら何もならない、IT の投資はしない、っていう風潮が激しい。そんな状態。でも、やっぱり電子化、必須じゃないですか。効率の悪い仕事の仕方がいっぱいあって、今以上にね。
で、それで、当時の僕の、一番最初働いてきた思いなんですけれども。試すことさえできない、企業で試すことができないっていうのがあるんだったら、試せるオープンソースをいろいろ用意して使ってもらおう。で、その普及活動っていうのかな、促進活動っていうのは並行して進めてました。
ただね、オープンソースの事業っていうのは、僕、最初、立ち上げからやってましたけれども。中でずっとそればっかりやってたんじゃなくて、やっぱりどんどんどんどん移るんですね。未踏なんかもやりましたし、ソフトウェアエンジニアリングセンターもやったし。それから、民主党政権の頃って仕分けとかあって。その頃は、仕分けにどう対応するかっていう担当にもなったし。
えっと、会社では、本当は僕、オープンソースみたいなのにずっと関わりたかったんですけど、関わらせてもらえませんでした。
そうだったんですか。
逆に。そうなんですよ。そこは、辛かったですね。いや、その仕事の辛さを、コミュニティ活動で逃げてたっていうところはあります。月一でね、必ずそのコミュニティ活動はあるんで。
どちらも同じ思いなんですけど、っていうところで、コミュニティのほうでやれることっていう形でやってらっしゃる。
で、コミュニティのことで知った知見を、そのオープンソースやってる人たちに、世間ではこうなんだよって言って。あの、IPA はやっぱり役所なんで、そういうことを自ら進んでやるっていう人、ほとんどいないんですよ。だから、そういうことをやってました、僕は。
今まで二十年三十年近く、オープンソースにお仕事もコミュニティも含めやられてらっしゃると思うんですけど。どちらの側面でも、そういった活動をずっと続けていくっていうことをやってらっしゃる上で、続けるのが難しくなった時とか、これは課題だっていうのを感じたりとかした時って、何かしらあったりっていうのは。
そう、あの、基本、なんで続けてこられたかっていうのは。それは、楽しかったから。それは明確なんですよ。楽しかったから。
それと、何かをアウトプットを出すっていうのは、結構な喜びなんで。それは、LinuxUSER であったり、日々の発表であったり。イベントドリブンなことがいろいろできるんで、OSC でみんなに会ったりとか。それは楽しいですね。
ただ、やっぱり、辞めたいって思ったことは、なかったって言うと嘘になります。何回かありました。
そうなんですね。
やっぱり、コミュニティをやってると、その。僕は、なんか誤解を招く言い方なんですけど、他人に期待しない、っていうのをモットーにしてるんですよ。他人に期待するんだったら、自分に期待してできることやりましょうっていう。
だから、そうなんですけど、ほかの人たちは結構、他人に期待する。他人ってのは僕のことですね。こうしたほうがいいよ、こうすべきだ、なんでこれやらないの、っていう人がすごく多くなって。そこでですね、そうだそうだっていう人もいるわけですよね。エコーチェンバーで。
それがあまりに激しくなってくると。まあ、理想は分かるんですよ。で、それがあなたの理想だっていうのは分かるんだけれども、だったら、それはあなたがやればいいでしょ。じゃあ僕は他のところで自分でやるからいいよって。話になります。それが何回かありました。
やっぱりコミュニティとかでやってらっしゃると、そういうところが起きてしまうっていうところがあるってことですかね。
そうですね。これ、きついですね、やっぱり。
難しいですよね。組織でやっていくってなると、いわゆる目標という形じゃなく、学んでいくっていうところだと、確かにそういうことが起きてしまうと難しいのかなっていうのは、今聞いてて思いました。
これ、きついですね。なんか嫌なことが走馬灯のように。
すいません、なんか嫌なことを出してしまって。っていうのもありつつも、最終的には楽しいというところで乗り越える、ではないですけど。
そうですね。楽しいっていうところが一番でしょうね。
そういう活動をするのは、やっぱり人との関わり方というか、関わっていくってところがやっぱりあって。そこがいろいろ、良いところだったり悪いところだったり、変わってくるって感じなんですかね。
そう、それはね、日本だけじゃなくて、ワールドワイドでそれができるっていいと思いますよ。いろいろな文化も違うし、っていうのはやっぱり味わえる。っていうのは、オープンソース活動の醍醐味だと思いますね。
それで言うと、私は、こういうオフな活動があると知る前は、本当にコードだけのやり取りなんじゃないかって思ってたりしたんですけど。実際いろいろ話を伺うと、やっぱり人との関わりとか、そういうところが重要なんじゃないかって。
実際にコードを書いてない人も結構多いですし。海外で行くと、アメリカのオープンソース活動っていうのは、もう完全に、マネージングの勉強をするような感じですよね。
僕、あの、結構感動したのは。インドネシアが、まだ全然お金がない頃、二十年ぐらい前に、日本の JICA が、産業が全然、農業以外育っていない、インドネシアのジョグジャカルタっていうところに。Windows を買うお金も満足にないんで、Linux 導入の支援をしたんですよ。これがもう、バカ当たりして、今、ちゃんとソフトウェア産業が育ってるんですね。
これはちょっと調べるとね、ジョグジャカルタ、Linux って出てくるんじゃないのかな。JICA かね。それとね。
出てきました。Linux じゃないですけど、一応ありますね。ジョグジャカルタ特別州 ICT 活用教育質向上事業、みたいな形で。
そうそうそうそう。多分これなんだと思うんですよ。でも、これ、今(写真に写っているパソコン)Apple だよね。
そうなんですよね、ちょっとパソコンが。でも、ちょっと古いパソコンも使ってるので、それが Linux 入ってるのかなと見ながら思いつつ。
すごいのは、やっぱり、ネット環境さえ改善されると。インドネシアでも、それこそ、世界最貧国の一つのバングラデシュだって、同じ環境で戦えるんですよ。それ、すごいと思いません。あとは、だからその、技術さえあれば。逆に、バングラデシュが一番有利になるわけ。コストが一番安いから。そうすると、貧乏から抜けれるわけじゃないですか。そこにあぐらかいてる、多分先進国、日本も含まれると思いますけど、きついけどね。
ワールドワイドでいろんな、活用のしがいがあるというか、オープンソース活動って幅広いっていうところがあるのかって。
そうそう。あの、IPA を職員として退職した後に、二年ほど委員をやらせてもらったんですけど。その時に、結構やっぱり、世界のオープンソースっていうのを調べてほしい、オープンソース政策というものを調べてほしいって、調べてたんですけれども。まあ、オープンソースをうまく自国の情報政策に活用してるんですよね。日本が一番活用してないんじゃないかな。先進国の中でも。
でも、僕、それは逆説的な意味で、これからもっと利用すれば、今の状態から大きく改善できる、っていうことじゃないですか。これをすごい期待してます。
近年の潮流、最近の文化とか、最近の流れっていうのをどういうふうに捉えてらっしゃるのかな、っていう。技術であったりとか、オープンソースの流れであったりとか、結構いろいろ変わってきてると思うんですけど。
サーバー環境っていうか、クラウド環境はもう Linux 当たり前なんで。クラウドっていうか、仮想環境っていう形は当たり前。でも、それは一部の人がそう思ってるだけで、多くの一般ピープルとか、サーバーのインフラの人以外は全く知らない。
それをどうするかですよね。意識しないっていうのはすごくいいことなんだけど、意識しなさすぎるだろうと。だって、そもそも日本のあらゆるシステムが Windows と Mac 前提で。Mac もやっぱりそうでもないけど、Mac もなかったり、Windows 前提で作られてますよね。
それはなんか、ちょっとその、デジタル赤字で、デジタル貿易不均衡とか言っているのに、あの、日本政府からしてどうなの、っていう感じは、すごく大いに不満です。むちゃくちゃ不満です。
それで言うと、Linux とかがちゃんと使われるっていうところが、やっぱりあってほしいっていう感じですか。
僕が生きている間に、そういうのが徐々に当たり前になるような世界になるといいですね。
この間笑ったのは。Linux ってわけじゃないんですけど、あの、僕が行ってる専門学校が、Google Workspace を導入してて。で、Google Workspace に Classroom っていうアプリケーションがあって、これ全部、その教材から課題、テストまで全部一律管理できるんですよ。
で、この間、その成績表を出してくださいって、Excel が送られてきましたからね。なんでやねんって。そこなんですよ。もう、想像つくに、前からExcel で使ってました。で、Google Workspace を導入しました。ただ、あの、Excel とオフィスがずいぶん安く使えるから。ただ、やり方は変えない。
これが日本の DX の現状ですよ。
確かにそうですね。ちぐはぐなところは否めないですよね。
そうそうそう。おかしいと思わないっていうか、多分、忙しさにかこつけてる理由で、変えられないんだと思うんですよね。
確かに。それで言うと、私たちも情報学部なんですけど、結構モダンな技術、それこそ AI だったり何とかも、使い方とかも微妙に先生によってブレたりとか。いまだに、Word を使うのかと思いきや Linux 使ったりとか、結構ブレはいっぱいあったりします。
あの、うちのその専門学校でも、AI 禁止っていう人いますからね。いや、じゃあ AI を禁止するんじゃなくて、AI を使ってもいいから、それを鵜呑みに出したやつはぜひ落とすぞっていう話にしないとだめでしょって。社会に出たら AI 使うのも大前提じゃないですか。
そういうふうな環境の中で、じゃあ AI のどういう使い方をしなくちゃいけないのかとか、効率的なことはどうするのか、確認はどうするのか、みたいな話っていうものを教えるべきなのに。コードは手で打たないと覚えない、と。手で打つコードなんて、今、時代、ないない。
難しいですよね。私のところも、テストはコード手打ちでやっぱやらないと、っていう人もいれば、もうどんどん使ってやってもいいよっていう人もいるので。特に生成 AI に関しては、考えてらっしゃることがバラバラで、難しいなっていうのは感じます。
僕、全部デジタルで課題なんか出してるんですけど。困るのが、僕が教えたことより高度なコードを書いてきて、しかも動いちゃう。で、分かってるのかなあ、分かってないのかなっていうね。
難しいですね。
そうそうそう。それはね、だから、一個だけ答えさせるんじゃなくて、総合的に判断する形にしてますね。
でも結局、僕、今 Linux の授業を教えてるんですけど。Linux なんて、やっぱり僕が接したように、Linux に接することが楽しいって思ってくれれば、僕はゴールだと思ってるんで。そう思ってます。
ただね、最近の学生って、すぐ隠れてサッカーゲームするんですよ。スマホで。まあ、専門学校だからね、余計にね。Linux を楽しむのが授業なんで、サッカーゲームを楽しむのが授業じゃないから、それ違うからねっていう話をして。あとで絶対困るからって言って。そういう話はしてます。
それで言うと、やっぱりどういう技術を使っても、結局ちゃんとそういうところに達してくれればいいのかなっていうところが。
あのね、判断する方法と、それから調べる方法。それが身についてくれれば僕はいいと思ってて。ほら、二年前は生成 AI のせの字もなかったわけじゃないですか。一年前の生成 AI の使い方と、今の生成 AI の使い方も全然違うじゃないですか。
本当に全然違いますね。
でしょ。だからこれを覚えなさいって言ったら、多分、覚えたのがどんどん陳腐化するだけなんですよ。だから、こういうふうな探し方をしなさいとか、こういうふうにおかしいなと思いなさいとか。そういう、どうしたら、なんて言ったらいいのかなあ。How みたいなとか、Why とか、その辺を思う力。それと、楽しむね。嫌だなと思うと思い浮かばないから。その辺を、その教えてる子たちに学んでほしいなあと思うんですけど。なかなか伝わんないっす。
難しいですね。でも、そういうのがやっぱり今の活動の原点ではないですけど。私も結構 Linux を触って、やっぱり楽しかったのがきっかけで、今これも Ubuntu で、っていう感じで。そういうところが、技術であっても、やっぱり必要というか、大切なことなのかなって考えてらっしゃるっていう感じですか。
僕のクラスね、全員留学生なんですよ。で、しかも、やっぱり貧乏な国から来てる人たちが多いんで。君たちがこれを持ち帰って会社を起こして国を大きくしていくんだから、って話をするんだけど。伝わんないっすね、やっぱりね。話、大きすぎて。
でもね、教務の人に聞くと、五年以内にほとんどの人が帰ってしまうんだって。日本にエンジニアとして残る人はほとんどいないって言ってましたね。だから、日本で食えるような力があるんだったら、国に帰って会社を起こすし。日本で太刀打ちできないんだったら、やっぱり日本にいられない。いずれにしろ日本にいなくなるって。エンジニアとしてずっと日本で、っていうのはいないんですねって。いないって言ってました。
じゃあ、もう最終的にはみんな帰られるので、帰った後でうまくいってほしいっていうところが。
そう。それだと、日本でその絆っていうのを結んで何とかすると、また違うケミストリーが起こるじゃないですか。それはちょっと楽しみなんですけどね。
すごい。じゃあ、すごい壮大なことをやってらっしゃる。
いや、本当そうなるか分からないですよ。
じゃあ、もう今後もそういうお仕事としては、そういうこともやりつつ、コミュニティとしても、って感じですかね。
そうですね。やっぱり、あの、もうあと、確実に、あと五十年は生きられないんで。死ぬまでに、こういうことはずっと、ライフワークとして続けられたらいいなあと思ってます。結構だから、安い投資でこういうふうな楽しむことができてるんで、いいと思いますね。
じゃあ、もうこういう感じで将来に向けてっていうか、世代に向けてやるって感じですかね。
そうですね。こうやって若い人たちとコミュニケーションも取れるし。こんな幸せなこと、あるのかと思うぐらいですよ。
ありがとうございます。皆さんいろいろお話を聞いてて、私が本当にインターネットが出る前のこととかは分からないので、そういうところからどうされてるのかとかっていうのは、聞けて嬉しいなと思ってます。
そうそう。えっと、僕たちが作っている LinuxUSER っていうのは、その昔ソフトバンクが出してた UNIX USER っていう、見たことあるでしょ。A4 の大きさのやつ。であれで、後ろに CD が付いてたでしょう、おまけで。あれのオマージュなんです。
そうなんですね。
そうそうそうそう。だから、いつも、あの DVD をおまけに付けますよって言ってて、付かないっていう。
いつもここにも「付属するかも」って書いてありますね。
ずっと怒られてるんです、それは。コミケに行くと、やっぱり十人ぐらいに、今回も落ちましたねって。一番最後に作ったのは、やっぱり二〇一五年だったかな。もう二十冊以上落ちてるんで、もうそろそろ本当に作らないと。
あの、作ってもね、今ね、デバイスがないから、みんな読めないのに。
そう、ドライブもないんですし。今や ISO も DVD に収まらなくなってきちゃったりとか。
そうそうそう。だから、あの、収まるやつを探して、専用なのを作ろうと思っていろいろやってるんですけれど。で、時々ハードオフに行って、外付けの DVD ドライブがあるとスッと買ってきてしまうっていうね。こういうやつね。
いいですね。後ろもすごいですね、いろいろ。それこそ本当に。
あ、そうですね。あの、かみさんに怒られてます。
でも私も分かります。ハードオフに行ったら何かしら。今、手元にこれ、DVD ドライブ置いてありました。こんな感じで、僕ももう三つ目とかなんですけど。
楽しいですよね。あの、細いやつも買って。今ね、だから三百円とか五百円で買えるからね。安いですよね。動けばラッキーだもんね。動かなくても、ちょっと分解して磨くと動き出したりとかね。これ、楽しいんですよ。
楽しいですね。こういう楽しみもありながら、じゃあ、もうちょっと、次のはぜひ DVD を。
そうそう、そうですね。よろしくお願いします。
いただいたやつも、LinuxUSER をもう一回たくさん読ませていただきます。サークルの。
ないのって、何年以降はないとかあるの。
多分、いただいたのの一番古いのより前は持ってないですね、私たちも。
一番古いの、どれ。
ちょっと今この場にないんですけど。五冊いただいて、六冊目七冊目ぐらい、二、三冊ぐらい前のがあって。多分、二三年ぐらいまではいただいたかなと思ってます。
なるほど、分かりました。じゃあ、ちょっと探してみます。
ありがとうございます。サークルのところに置いてあるので、三十人ぐらいいるんですけど、OSC に行く人とか二、三人が、今、楽しく読ませてもらってて。本当にすごい、ありがとうございます。
えっと、願わくば、願わくばですよ。今、東海道らぐって言うんで、名古屋の人と神奈川の人と、それから、静岡の人もいるんですけれども、っていう感じで作ってるんで。その若い人を集めて、例えば静岡大学の人たちが中心になって、静岡らぐっていうのを作って。で、それで、年に二回、コミックマーケットで会って、元気でしたっていう挨拶をするような、ことになれば、僕はとても幸せです。
ちょっと今月も小江戸らぐに行きたかったんですけど、ちょうど別の用事がかぶってて。ぜひ来月からちょっと行かせていただきたい。
はい。来月、オンラインですけど。
そうなんですね。じゃあちょっとぜひ。っていう感じで、僕たちも一応、実はコミックマーケットに今年出そうかなと思ってまして。サークルがあって、そのサークル自体で出そうっていう話をしてまして。多分、同人ソフトで出されてるところに出そうっていうことで、いろいろやっておりまして。
ぜひぜひ。あ、そうそう。あの、大学で出してる方も何人かいらっしゃいますよね。
そうですよね。先輩とかも出されてて、っていうことで、今度サークルで出そうという話になって。なので、もしかするとご一緒するかなと思いつつ。ぜひよろしくお願いします。すいません、ありがとうございます、長い間。お話いただいて、本もいただいて、本当にありがとうございます。
そうですね。楽しみにしてます。はい、ありがとう。よろしくお願いします。
語注
- FM-8
- 富士通が一九八一年に発売した八ビットのパソコン。
- PC-98
- 日本電気が一九八二年に発売した PC-9801 とその後継機。国内の事実上の標準となり、エプソンが互換機を出していた。
- BASIC
- 初期のパソコンに標準で載っていたプログラミング言語。
- メインフレーム
- 企業や大学が共同で使う大型の計算機。端末から順番に使う。
- Fortran
- 科学技術計算に使われてきたプログラミング言語。一九五七年公開。
- BSD
- カリフォルニア大学バークレー校で作られた UNIX 系の OS。BSD 4.2 は一九八三年、BSD/386 は一九九二年。
- f2c
- FORTRAN で書いたプログラムを C 言語に変換するツール。
- リチャード・ストールマン
- 一九八三年に GNU プロジェクトを始めた人。ソフトウェアを自由に使い、調べ、変えられる状態を守ろうとした。
- Solaris
- サン・マイクロシステムズが売っていた商用の UNIX。
- Walnut Creek CDROM
- 一九九一年設立。フリーソフトウェアを CD-ROM に詰めて売っていたベイエリアの会社。のちに FreeBSD の開発を支えた。
- Yggdrasil
- 一九九二年十二月に最初の版が出た Linux ディストリビューション。バークレーの Adam J. Richter が作り、CD-ROM から直接起動できる最初のものだった。名は北欧神話の世界樹による。
- X
- UNIX 系の OS で画面を描くための仕組み。X Window System。
- 10BASE-T
- 電話線に似た端子で、機器を一台ずつ集線装置につなぐ方式。それ以前は一本の同軸ケーブルに機器を数珠つなぎにしており、どこかが抜けると全体が止まった。
- パスコ
- 航空測量と地図の会社。同じ読みの製パン会社とは別。
- GIS
- 地理情報システム。地図の上に情報を重ねて扱う仕組み。
- Tokyo Linux Users Group
- 一九九四年発足。日本にいる英語話者が中心で、集まりも英語で行われた。
- BBS
- 電話回線でつなぐ会員制の掲示板。パソコン通信ともいう。
- 日経 MIX
- 日経マグロウヒル(現・日経 BP)が一九八七年九月に始めた BBS。一九九七年十月に終了した。
- ネットニュース
- 大学や研究機関のサーバーが記事を順ぐりに配り合う、掲示板に似た仕組み。
- IPA
- 情報処理推進機構。経済産業省が所管する。
- オープンソースソフトウェア事業
- IPA が二〇〇三年度から行った「オープンソースソフトウェア活用基盤整備事業」。二〇〇九年の事業仕分け以降、オープンソース関連の事業は行われていない。
- 未踏
- IPA が若手の開発者に開発費を出す制度。年齢の上限を設けた「未踏ユース」があった。
- uim、Anthy
- Linux で日本語を入力するためのソフトウェア。uim が入力の枠組み、Anthy がかな漢字変換を担う。
- 小江戸らぐ
- 二〇〇二年八月、語り手が Linux Users のメーリングリストに呼びかけて始まった。川越を中心に、月に一度集まる。
- connpass
- 勉強会の告知と参加登録を行うウェブサービス。
- YLUG
- 横浜 Linux Users Group。カーネル読書会で知られる。
- LinuxUSER
- 小江戸らぐの活動報告集。年二回、コミックマーケットで頒布している。
- UNIX USER
- ソフトバンクが一九九二年に創刊した雑誌。付録の CD-ROM に各種の OS が収められていた。二〇〇五年に『オープンソースマガジン』と改称し、二〇〇七年一月号で休刊。
- キンコーズ
- コピーや製本を扱う店。同人誌の印刷に使われてきた。
- ソフトウェアエンジニアリングセンター
- IPA に置かれていた組織。ソフトウェア開発の手法や品質の研究を行った。
- 事業仕分け
- 二〇〇九年、民主党政権下で行われた予算の公開見直し。
- JICA
- 国際協力機構。政府開発援助を実施する。
- ジョグジャカルタ特別州 ICT 活用教育質向上事業
- 聞き手がその場で検索して見つけ、チャットに貼ったもの。語り手が話している支援と同じものかは、この場では確かめられていない。
- OSC
- オープンソースカンファレンス。第六篇の語り手が二〇〇四年に始めた。
- 東海道らぐ
- 名古屋・静岡・神奈川の参加者で開いている勉強会。
本文のライセンスは CC BY-ND 4.0。翻訳とその公開・配布は許諾しています。図書カード(PDF・TXT)